”rogo”

New Photo Labratory

写真の構想を
はじめよう

Introduction

写真と美術の回路は切断された。
Plotはこの回路を再接続する。

 80年代以降、写真と美術のあいだの溝は深まり続けてきた。今日まで40年の月日が 経過したが、その溝は一向に埋まる気配がない。写真から美術の歴史が失われた代償 はあまりにも大きい。

 写真の世界はこの分断と喪失から目を逸らし、自己防衛として「現代写真」や「芸術 写真」なる言葉が使われてきた。まずはその呼び名を捨て去るべきである。安易に写真 と美術の決定不可能性に依存してはいけない。芸術の核心は自己防衛ではない。  Plotはその意味において、現代写真や芸術写真、さらには新写真論の数々を終わらせ るべく立ち上げられた。

 作家に目を向ければ、写真において芸術をあつかう写真家と、芸術において写真をあ つかう美術家の乖離がある。すなわち、一方に「写真とはなにか」と問いつづける写真 家がいて、もう一方に「既存の写真を破壊せよ」と叫ぶ美術家がいる。写真家はますま す純粋な写真の本質を信じる者となり、美術家は既存の芸術をリバイバル的に消費する 者となっている。わたしたちはこの現状を直視しなければいけない。

 この状況を打破すべく、Plotは写真と美術を再接続する。それは「写真それ自体への 批判力」をとりもどす試みである。当然ながら作品を制作するだけではなく、「写真 を批判できる現代美術」が可能となる地平を築かなければいけない。それは作品制作 と理論構築であり、拠点となる具体的なPlotという場所でもある。

 まず、いつまでも写真とはなにかという問いを続けることに意味はない。この問いは 一見すると写真への真剣な態度にも見えかねない。しかし、その問いに答えはない。 それは写真の内部で写真だけを愛でつづける「写真偏愛的ナルシシズム」である。  そもそも写真の本質を求める問いは、写真のアルケー(起源)についての問いであ る。それを支えてきたのが今日までわたしたちが「写真論」と呼んできたものだ。現在 の代表的な写真論には、写真史家ジェフリー・バッチェンによる『写真のアルケオロ ジー』がある。

 問いの答えが際限なく遅延される決定不可能性の牢獄は、写真にとって終の住処とな るほかない。外部が遮断された写真偏愛的ナルシシズムの牢獄で、写真の未来は消え失 せかけている。後期資本主義の情報社会のなかにあって「写真」はもうかつてのような ものではない。わたしたちは、1980年に批評家のロラン・バルトが『明るい部屋』の なかで写真の性格として定義した「存在証明書」(過去の事物の存在を保証する写真) を、40年越しに「写真」に対して与えるべきなのだ。

 だからこそ、いま必要なのはもうひとつの新しい写真論ではない。写真論をラディカ ルに終わらせることが必要である。専門的にいえば、写真の「芸術的言説」と「社会的 言説」の分離を前提とし、その二項対立から決定不可能性という新たな第三項をひき だす言説に終止符を打つべきなのだ。そのための問いは「なぜこれが写真なのか」で ある。

 Plotの講義は写真のアナーキー(起源なし)を暴きだし、写真偏愛的ナルシシズムを 駆動させている機械を停止するべく構成されている。

 一方で既存の写真を破壊する美術家はどうだろうか。キュレーターのシャーロッ ト・コットンによる『写真は魔術』で最先端として紹介される「コンテンポラリー・フォ ト・アート」の動向が分かりやすいだろう。

 そこにおいてキュレーターと作家は、戦後西洋美術における60年代のアルテ・ポー ヴェラを無自覚に反復している。あるいは、リバイバルとして流行的に消費している。  アルテ・ポーヴェラは既存の美術制度や絵画や彫刻など各メディウムの形式の外部へ と向かう様式である。当時の作家たちはいつもとすこし違う素材を使いながら、既存 のメディウムを横断し、美術制度という壁の外側を求めて制作してた。

 けれども、それは暗礁に乗り上げてしまう。美術の外へと出るためには、美術の外 にいるひとびと=他者としての観客を引き込まなければならなかったのだ。わたしたち は、この重要な問題を忘却するべきではない。美術のための美術は、現代美術になり えない。

 既存の写真を破壊する作家たちがめくらめっぽう振り上げた刃物は、返す刀で美術 史における表現の蓄積までをも破壊してきた。半世紀以上も遅れたあげく、安易な破壊 に走り、ゆめゆめ歴史を忘却すべきではない。

 Plotの講義では美術の問題を徹底的に分析することで、批判的に写真をあつかう現代 美術が可能となる地平を作りあげる。

 写真から美術の歴史が失われた代償は大きい。未来への欲望を特徴づけるような表現 も失われた。デジタルメディアでアナログメディアの形式を反復すること、あるいは、 過去の歴史を反復することに象徴されるように、表現に刻印されるはずの特定の時代の 特徴が存在していない。

 かつて哲学者の梅原猛は、過去と未来が凍えることを絶望と呼んだ。過去でもなけれ ば現在でもなく未来でもない、蝶番の外れた時間。その牢獄に写真は捕らえられてい る。すなわち写真と真剣に向き合うことが写真への愛なのではない。その反対に、愛 の裏返しとして写真を破壊することなのでもない。写真それ自体について批判的に思考 し、制作できる環境を持続的に運営するべきなのだ。Plotはこの背景に支えられている からこそ、講義を通して写真への愛を伝える拠点になるだろう。

山崎 裕貴 / Yuki Yamazaki
美術作家、Contemporary art gallery One Four所属。 1993年、静岡に生まれる。自閉した芸術写真の厚顔無恥(あるいは機能不全)に絶望し、批評的視座を基軸に国内外にて活動。幅広い射程と深度をそなえた作品の制作発表と並行し、「Plot」主宰メンバーのひとり。実家裏の河原で石ころを拾い、ひとり化石についてコペルニクス的転回を唱える家具職人の祖父による影響が大きい(退職後、夥しい数の鳥の彫刻を鋭意制作中)。展示等ついては下記参照。
https://www.galleryonefour.com
中澤 有基 / Nakazawa Yuki
写真家/galleryMain代表。1980年生まれ京都市在住。2002年ビジュアルアーツ大阪卒。galleryMainを主宰するなどギャラリストとして活動しながら写真作品を発表。主な展示に『震える森、焦点の距離』(2013/gallery 9 kyoto)、『無関係な関係、適切な距離』(2016/galleryMain)、『無関係な関係、空白の定義』(GalleryParc/京都)など。アートフェア『FOTOFEVER ARTFAIR PARIS』(Carousel du Louvre)に2014年2015年に出展。外部での写真企画やディレクションなども行う。2015年よりKYOTOGRAPHIE京都国際写真祭サテライトイベントKG+プログラムディレクターも務める。
http://www.nakazawayuki.jp
http://www.gallerymain.com
http://www.kyotographie.jp/kgplus/
竹下 想 / Takeshita So
美術家 / デザイナー 1989年生まれ宮崎県出身。
「死から不死へ」をテーマに芸術活動。デザイナーとしてWEBサービスSchooのアートディレクションなどを担当中。主な展示は『無限スクロールの終わる夜に』(2018/KOBE819GALLERY)、『死から不死へ』(2015/KOBE819GALLERY)
http://sotakeshita.com
松岡 湧紀 / Matsuoka Yuki
メディアアーティスト。1991年生まれのレペゼン郊外。ぺらぺらのコンクリートに靄をかけて花を添えたい。VR事業に取り組む企業でディレクターとして勤務する傍ら、制作を行う。

New Labratory

Plot Contemporary Photo Labratory

2021年4月、京都で写真を構想するスクールを開設します。

問い合わせ先 / plot.photo.school@gmail.com